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アルフォンソ3世 (アストゥリアス王) : ミニ英和和英辞書
アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)[あるふぉんそ3せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

アルフォンソ3世 (アストゥリアス王) : ウィキペディア日本語版
アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)[あるふぉんそ3せい]

アルフォンソ3世Alfonso III de Asturias, 848年頃 - 910年12月20日)は、アストゥリアス。大王(el Magno)とおくり名された。
オルドーニョ1世と妃ムニアの子として生まれた。彼は貴族の反乱や、同じ一族の者の反乱(ベルムード公の反乱)といった一連の内乱に見舞われた。彼は強力な再植民政策を推し進め、王国の南端で自然の国境となっていたドゥエロ川流域(ドゥエロの砂漠と呼ばれた。サモーラトーロ周辺)に主としてモサラベを送り込んだ。イスラム軍に対しても勢いよく戦い、ポルボラリアで打ち負かした。
ヒメナ・ガルセス(素性不明であるが、一部でパンプローナ王家出身だと推測されている)との間に、5子をもうけた。彼の治世の最晩年は不明なことが多い。理由はわかっていないが、長子のガルシアは弟たちと協力して父アルフォンソ3世を倒して王位についている。事実上アルフォンソ3世は廃位されたが王としての地位を保持したまま、サモラで没した。
==生涯==
853年に王位継承者とされ、ガリシアの統治をまかされた。王の正統性に異を唱えたルーゴ伯ベルムデスと父王が対立し、ベルムデスが王位簒奪の行動に出ると、カスティーリャ伯アルフォンソのもとへ匿われたとされる。オルドーニョ1世以前は選挙王制が行われていたが、当時は既に忘れられていた。1年後、カスティーリャ伯の助力でアルフォンソ3世はガリシアの統治権を取り戻した。867年、反乱を起こしたバスク人を制圧した。
オルドーニョ1世の時代に始められたイスラム軍との国境地帯への再植民を、彼も継承した。878年にはポルトガル北部へ軍を送り、コインブラポルトを征服し、南西の国境をモンデゴ川に定めた。
メリダ領主アブド・アル=ラフマーン・イブン・マルワーンは、コルドバの太守に反旗を翻した。太守はマルワーンの機嫌をとろうと大臣ハーシムを送り込んだ。イスラム軍はコルドバからレオントレドグアダラハラタランコンへ進軍した。タホ川谷でイスラム軍を待ち受けたアルフォンソ3世はこれを敗退させた。太守軍は退却したが反撃に転じ、バルデモーロで再び打ち負かされた。コルドバの太守ムハンマドは大臣の身代金を払う羽目になり、3年の休戦協定が結ばれた。
アルフォンソ3世もイスラム側も、休戦を破って次の急襲をするのに備えていた。ムハンマドは海側からガリシアを攻撃しようと船を集めたが、嵐で全滅した。
882年、復讐としてムハンマドはサラゴサ王国を急襲した。そこには、バヌ=カシー家の息子ムーサとともに教育を受けていたアルフォンソ3世の子オルドーニョがいた。捕虜の交換が行われ、コルドバの太守軍は追い出された。883年の戦いも同じ結果となった。
901年、イブン・キートが聖戦を唱えてサモラを包囲した。この間、コルドバの民は内乱に苦しめられており、アストゥリアス王国に注意を払う余裕がなかった。しかしエブロ河岸でかつての同盟者メリダ軍と出会い、バヌ=カシー家をクーデターで倒した。ナバーラ王位はサンチョ・ガルセスのものとなった。
晩年、アルフォンソ3世は息子ガルシアの反乱に直面した。ガルシアはカスティーリャ伯ヌノ・フェルナンデスの娘ヌナを妻としており、舅に教唆されたとみられる。ガルシアが父親に捕らえられると、ヌノはヒメナ、フルエーラ、オルドーニョに支持され反乱を引き起こした。内戦を避けるため王はガルシアを解放し、王妃とともにサモラへ隠遁しそこで没した。
この時以来、アストゥリアス王国は広大な領土拡大を行い支配するようになった。アストゥリアス王国はモンデーゴ川とドゥエロ川へ国境を拡大し、新しい社会はキリスト教徒とモサラベで構成されていた。王国は子供たちが分割し、ガルシアがレオン王国を、オルドーニョがガリシア王国を、フルエラがアストゥリアス王国を継承した。聖職者であったゴンサーロはオビエドの助祭となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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